可塑性をもつ心はどこに存在するのか

われわれの精神ーhuman mindともいうべき、いわゆる心がもつ可塑性、つまり常に世界と関わり合って変化してゆく私たちの心を具体的に想像しようとするとき、どのような描像を与えるのが最も的を得た比喩になるだろうか?

考えうるあらゆる精神作用的な状況に対しての情動反応の集合体、というのがふさわしいように思われる。つまり『状況ー反応』の対をなす可能性の束なのである。この束の一つ一つの結合の仕方が、経験を重ねるとともに変化してゆくのである。状況も、反応も、時間軸に縛られながらわれわれの住む三次元の空間で起こることだが、この束自体は可能性の束であって実在のものではなく、三次元空間とは無関係な空間に存在するのである。
具体的というには程遠いが、人間の精神に、既存の仕方以外で、より客観的な存在様式を与えるとすれば、これが私の現状提案しうる最善の姿である。

人間の心はどこに存在するか?心臓が?それとも脳か?という議論があったが、身体の何処かに存在の場所を問うということは、無条件にこの三次元の世界に存在の可能性を絞っていることになる。三次元の世界に存在を求めずに他にどこに求めるのか?気でも狂ったか?と問う声は当然あろうが、厳密に表現すればそういうことになる。単なる禅問答というよりは、あらたな学問の扉がそこにあるかもしれないと思うのである。