言葉の限界

言葉はありとあらゆることを記述し、描写できる。
世の中にあふれかえる書籍、新聞、ブログ、SNS、すべて言葉が媒介する情報伝達だ。

それは当たり前のように思われるが、
一方で、言葉で伝えられる情報は、とても限られている。
どれほど時間をかけてよいとしても、言葉で伝えにくいことがある。たとえば、自転車の漕ぎ方。ピアノの弾き方。言葉は、視覚・聴覚に関する物質的な対象は明確に定義できるし、抽象的な概念であっても、その定義がすでに受け入れられていることについては、明確に記述できる。考えてみれば、視覚は、たかだか3次元を網膜に投射した二次元の世界であり、聴覚は、1次元の世界である。それに比べて、運動は、全身の多数の筋肉を、絶妙なバランスとタイミングで動かす。本当はそこに感覚フィードバックも入ってくる。しかもそれらの多くは脊髄レベルで行われ、意識には上らない。意識に上らないので言語化できないのも当然なのである。

言語には明示されていない場合も含めて、必ず主語がある。明示されていない場合は、読み手か、書き手か、人間一般などである。これは読み手が暗黙のうちに想定する。言語と似ているが、対局に位置するのが、数式である。数式も言語も、有限長の文字列で、無限も含めた広範囲の現象を描写できる。しかし数式には主語はない。数式にも書き手はいるのだが、書き手を想定して数式を読むのは、数学史の研究など、特殊な場合であろう。数式は、変数の定義や、それが属する公理系とともに存在することではじめて、ある状態を記述できる。あらゆる記号は、前提となるルールがあってはじめて情報量が測れるのと似ている。