「考える」が変わる

えることは今のところヒトだけに許された行為であり、高等なこととみなされている。
計算したり、記憶したり、予測したり、「考え」ないとできないことはたくさんある。
これらは脳という臓器なしには行えない。


その一方で、スポーツをしたり、恋愛をしたり、ギャンブルをしたりすることは、
上のような「考える」ことに比べれば、高等なこととはみなされていない風潮がある。
でもこれらも脳という臓器なしには行えない。



はいったい「考える」ことは実際それほど高等なのだろうか。
計算することは、他のコトで脳を使うよりも際立ったことなのだろうか。
記憶、然り。予測、然り。


スポーツでも恋愛でもギャンブルでも、ある意味での計算が必要だし、関連する知識やノウハウを記憶する必要があるし、予測不可能なことをなんとか予測するのである。


一方で、小学校の算数のテストなどを思い浮かべれば、計算なんて規則に従って数字の列を書き換えるだけの作業である。人によって速さは違うかもしれないが、誰でもできることである。単純な計算は、痴呆予防にはなるかもしれないが、決してヒト特有の高等な行為、ではない。そんなことは誰もがうすうす気づいていることだろう。



等な行為、とは、結局悩むことだ、と思う。
つまり、未解決の事柄に挑むことだ。道筋のないところに道をひくことこそ高等な行為にみえるように思える。
科学や数学のように、未知の世界に法則性を見つけることは、高等だが、それに限らず、
叶うかわらかない恋愛に挑むことも、高等だし、
ギャンブルでも、単なるランダムネスとして見るのではなく、
様々なパラメータを研究し、結果を予測する行為とすれば、高等な行為にみえてくる。
そういうことなのだ。



脳科学が発展したとして、未知の世界に踏み込んで解決策を導く脳の活動は解明できるのだろうか。