あいであのーと3

名詞には一般名詞と抽象名詞がある。前者は対象(の一例)を指し示すことができるが、後者はできない。一般名詞はそれが指す物を代表するラベルだけれど、抽象名詞は何を指しているのだろう。あるいは対象はないのか。


ないはずはない。もしそうなら、全ての抽象名詞はラベルとして存在しているだけであり、ラベル同士が互いに区別可能としても、ラベルと対象を切り離すのならば、その意味は相互に交換してもよいはずである。つまり、「犬」と「猫」のラベルがあるときに、「犬」が猫を指し、「猫」が犬を指すように対象を置き換えてもよい、ということだ。しかしそれでは言語の最大の役目であるコミュニケーションは到底不可能である。(ちなみにコンピューターは、全てのラベルを符号化(整数化)しているという点で、あえてラベルを対象と切り離し、互いの区別のみにしている、と考えられる。つまりコンピュータの扱うラベルは僕達の五感で感受して初めて意味を持つ。)


抽象名詞の指す内容は、社会の習慣として代々受け継がれているのはおそらく正しい。しかし、それは対象物を指し示せるかどうかとは関係が無い。伝承されている点では一般名詞も同じだ。国語辞書をひもとけば、あらゆる名詞に対して、別の表現を用いた記述を見つけることができる。しかし、それは法律の世界でいえば六法全書のようなもので、一定のルールを示しているにすぎない(さらに法律とは違い強制力は無い)。極端な話、国語辞典を一度も見たことのない人も、言語を話しているのだから、抽象名詞の実体として、国語辞典の定義を挙げるのは現実にそぐわない。


抽象名詞の実体は1本の指で指し示せないけれども、おそらく、その言葉を聞いたときに個々人がイメージする場面や状況というものがあるはずだ。「抽象」名詞なのだから具体的な場面が指し示されるのは不適当ではないか、と思うかもしれない。しかしそれでも十分実体と呼べると思う。本来抽象名詞は、具体的な場面を指して使うものだ。逆に、具体例を指さず複数の例から帰納せねばならない、とすれば、いったいいくつの例を用いるのだろう?完全な抽象化はもともと不可能だ。個々の状況において言葉の意味は、文脈の中から、汲み取るものだ。それでも、一般名詞のようになにか指し示せるものを求めるとすれば、それはその言葉を単独で受け取ったときにその人が持つイメージということでよいのではないだろうか。一般名詞だって具体的にこれが犬です、と指しても、その犬だけが犬ではないのだから。一般名詞も抽象化はされている。


逆に一般名詞と抽象名詞の区別がどうでもよく思えてくる。それもおかしいけれど笑
実際は、一般名詞は操作の対象となることが多い(「〜を持つ」「〜を渡す」「〜を食べる」など自らの行為と密接に結びつく)のに対し、抽象名詞は自分の力で簡単に操作できることは少なく、受動的な名詞(あるいは観察的な名詞)といえるのかもしれない。


例えば、
①犬を 欲しがる。 これは自らの行為と密接に結びついている。
②平和を 希求する。 これは能動的な行為、というよりは自分の状態を記述している。

①も②も状態動詞だが、ここではその話ではない。①犬を欲しがるという場合、犬を持っている、という自分の動作をイメージするのに対し、②平和を希求するという場合、ふつう自分が平和を築くところは想像していない。(もちろん国連事務総長とか、総理大臣とかなら話は別です笑)